大野真澄 連載

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第24回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その6)”

2003.9

 1973年3月、とうとう「学生街の喫茶店」はオリジナル・コンフィデンス誌のシングル・チャートのトップに立ってしまった。そして、その後7週間もの間チャートのトップに居座り続けた。

 時を同じくしたこの3月、僕は病院のベッドでテレビに映る二人の唄う「学生街~」を複雑な思いで見ていた。

 丁度二週間前の2月26日横須賀文化会館に向かう京浜急行の中で僕はウトウトとしていた。この時は、もはや体に力の入る状態ではなく、座れば眠ってしまうという程で、体力もギリギリの限界状態に達していた。しかし不思議なものだと思った。別に苦しい訳でもなく、只々無性に眠いのだ。

 当日は初のライブレコーディングが行われる日であった。会館に到着した僕はほとんど動くことも出来ない状態で、平らな所は歩けるが、階段を一段たりとも上がることすら出来ない状態だった。頭はもうろうとしていたが、とにかくコンサートをやらねばという一念だけだった。他には、何も考えていなかったと思う。只々ステージに立つんだという事しか頭になく、今日、ここに来ている客の事も何もかもが、頭からはフッ飛んでいってしまっていた。今から、ちゃんとしたライブをやるんだと…。本当にそれだけしか頭の中にはなかった。多分動いていられるという事を確認をしたかっただけかも。というより生きているんだ、という確認をするために、ステージに立たねばという無意識の気持ちだけが、多分そこにあった。とにかく、ここ1ヶ月の間の下血と吐血はひどいものがあった。体が消耗していくのが自分でもわかる程ひどかった。しかし、スケジュールは満杯である。休むことなど考えもしなかった。

 そして、いよいよリハーサルだ。せいぜい2kg程度のギターでさえ重くて持てない。まるでコンクリートブロックを持ち上げるような気分だった。手伝ってもらってやっと肩に掛けてもらい、そんな状態でもリハーサルは始まった。しかし不思議だ。ちゃんと唄えるではないか。皆と一緒に唄えるではないか!! さっきまで、やっとの思いで歩いているという状態だったのにだ。

 しかしリハーサルが終わると、とたんに「何もかもどうでもいいや」って気分になっていた。そんな状態を見たスタッフが、本番迄時間があるから、一旦病院で診察をしてもらおう、という事になった。会館にほど近い、何とかという大きな病院へ行った。医者は怒っていた。僕にもマネージャーにも怒っていた。「こんな状態で、ステージに立つんですか? もし、もう一回でも下血か吐血があったら死んでしまいますヨ!!」と。「とにかく、即刻入院しなさい!!」との診断だった。しかし、医者の言葉は頭の中を通過しただけだった。もう止めることはできないのだ。やらなくてはいけないのだった。それ以外の選択肢は無いし。考えもしなかった。

(以下次号)

2007-11-20 17:31:15投稿者 : 大野真澄
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第23回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その5)”

2003.8

 1972年12月20日キャロルのデビューの日、新宿のライブハウス「サンダーバード」は、超満員の、いわゆるマスコミと音楽関係者、当時の名だたるミュージシャン達で、その熱気は最高潮に達していた。

 そして、そのデビューライブのステージに最初に立ったのは何と、僕であった。

 プロデューサーのミッキー・カーチスさんからの依頼で、是非とも「キャロル」の素晴らしさと今後への期待など、思いのたけを今日来ている客に紹介して欲しいとのことだった。勿論、心良く引き受けた僕だったが、果たして彼等は前評判通りの演奏をしてくれるだろうか? という不安があった。それというのも今日はデビューライブにもかかわらず、実は正式なドラマーがまだ決まっていなくてトラ(本来のメンバーではなくて、その当日だけ演奏する「仮」のメンバーのこと)が入っていたからである。しかし演奏が始まるやいなや、そんな不安は、一瞬にして、音が出た瞬間にフッ飛んでしまった。今までサンプル盤の音だけを聴いていた耳には、その生のサウンドのタイトさとパワフルで、迫力のある演奏にドギモを抜かれてしまった。当然、客席も大喝采で受けに受けまくっていた。

 そして、ライブ終了後、興奮さめやらぬ中、僕はトイレに立った。用を足した後、手洗いをしていると鏡の中に、まだステージ衣裳のまま(黒の革ジャンの上下にリーゼント)の矢沢永吉の姿があった。僕に気付いた彼は「初めまして、矢沢です。今日はありがとうございました。」と、その荒っぽくハードなイメージとは裏腹にキチンとした挨拶に、ちょっと戸惑ってしまったが、僕の方も「いや、どうも!! すごく良かったヨ。」と。そして、すかさず彼は、僕に「今日はこれからどうするんですか?」僕は「明日も早いんで、今日はもう帰るけど…。」そしたら、彼は「だったら、今からちょっと遊びに行ってもいいですか?」僕は一瞬、えっと思ったが、「ああいいよ!」「そうすかぁ、じゃー伺います。すぐ着替えてきますから。」ということで、矢沢永吉は、知り合った、その日にずうずうしく?! も僕の部屋に遊びに来たのである。

 しかし、これが今日に至るまでの彼との付き合いの始まりであった。そして彼は同じ年令ということもあってか、会ったその日から、タメ口はきくわ、遠慮はないわで、そして二言目には「俺達は、すぐにお前等(GAROのこと)を越えてやるからなっ!!」などと、随分、高飛車な奴だと思ったが、物言いのハッキリした彼に新鮮さと、ある種の爽やかささえも感じて、いい友達になれるかもと直感した。そして、部屋に入るなりビールを飲むのもそこそこに、僕のギターを手にした彼は、出来たばかりだというオリジナルを聴いて欲しいと、次々と曲を披露してくれた。彼の唄う、僕には気恥ずかしいとしか思えないような、デタラメ英語の曲であったが、その素晴らしいメロディーラインに、僕は感心するばかりであった。

(以下次号)

2007-11-20 17:30:23投稿者 : 大野真澄
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第22回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その4)”

2003.7

 1973年の2月末から3月迄、約1ヶ月と少し、僕は十二指腸潰瘍の治療で入院を余儀なくされていた。丁度30年前の話である。今回が4回目ですが、e-sedai及びリバーシブルのホームページなどでご覧の方は是非さか上ってご覧ください。

 1972年10月、4枚目のシングル「涙はいらない」を発売したばかりだというのに、約4ヶ月前に発売された3枚目のシングル「美しすぎて」のAB面をひっくり返して、B面に入っていた「学生街の喫茶店」をA面に入れ替えるという話が飛び込んで来た。あまりに唐突な話に寝耳に水といった僕達もア然とするばかりだった。何が何だか分からないまま、事はすでに進んでいた。

 北海道方面で有線のリクエストが増えていて、かなり評判になっているという情報は入っていたが、まさかこう云う事態になるとは思ってもみなかった。それに、この「学生街・・・」をステージで取り上げることは、ほとんどなかったしね。確か、冗談まじりで振りを付けて演奏した事が2回くらいあったような記憶はあるが。それにしても4枚目のシングルが発売されたばかりだというのに、それをさしおいて・・・・・・。正直言って困ったことになったもんだと思った。それでなくても、ゴタゴタ続きの時期であったからなおさらのコトだった。

 大体この「学生街・・・」が今月の唄になった時でさえ、大変だったんだから今回のこの事態はもう、何をかいわんやといったところで、案の定、納得出来ないのオンパレードになってしまったのは言うまでもないことだった。問題の上に又、問題が積み重なって、山のようになった問題の重みに耐えてゆくのがやっと、ってな気分の毎日であった。しかし、意に反して、この「学生街・・・」は、ジリジリとヒットチャートを上昇しはじめていた。

 そんなある日、僕にとっては息抜きとも気分転換とも思えるささやかな出来事があった。ファーストとセカンドアルバムのプロデューサーでもあったミッキー・カーチスさんからの電話だった。「実は聴いて欲しいテープがあるんでオフィスに来てくれないか?」と。仕事の合い間をぬって僕は出掛けていった。「カッコイイですねぇーッ!!」「だろー!! ビートルズ好きのボーカルなら絶対気に入ると思ってたのヨッ!!」。未だ歌詞の付いていないデタラメの英語だか何だかよく分からない言葉で唄う、そのグループに思い切り頭をガツンとやられてしまった。

 それは「キャロル」というグループのデモテープだった。実際、僕にとって、その衝撃は強烈なもので、凄いショックを受けたのを覚えている。しばらくして日本語詞の付いたデモテープを聴いて、又々その力強さに、増々この「キャロル」にのめり込んでゆく自分がそこにいた。それはまるで初めてビートルズを聴いた時のような感覚を味あわせてくれて本当にゴタゴタ続きの僕の気持ちをなぐさめてくれた。そして、自分達のことそっちのけで、友人達に「キャロル」を聴かせまくっている僕がいた。

(以下次号)

2007-11-20 17:24:42投稿者 : 大野真澄
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第21回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その3)”

2003.6

 先々月から、このコトを書きはじめているうちにGARO結成前後の時期からのコトをなんとはなしに僕なりにまとめてみようかなと思い、マァ“プライベイト”なモノとして書き進めているところです。という訳で、これは1973年3月のコトとしてふと、モノ思った“今の気分”を詳細にではなく、コンパクトにまとめて書き進めていきたいと思います。では、前回の続きです。

 まずは中略(GARO“2”のレコーディングに関連しての部分)します。このアルバムを制作し、東京音楽祭用で3枚目のシングル「美しすぎて」は山上路夫・作詞、村井邦彦・作曲という作品であったが、僕らのイメージにも合うもので、実際メンバーも気に入っていたのは事実である。しかし、このB面の「学生街の喫茶店」は、単にアルバム用に録音された作品にすぎず、たまたま「美しすぎて」のB面になったモノでしかなかったのに、大きな物議をかもし出すのは、発売されてすぐの6月下旬のことで、それはTBSラジオのヤングタウン東京という番組の7月度の「今月の唄」にしたいという申し出から始まった。

 同じ時期に、吉田拓郎のパックインミュージックという深夜番組でもこのB面が取り上げられる事態が起り、その上に、僕が唄っている曲であることが、問題を余計に面倒で複雑なモノにした。だいたい、A面にしてもプロの作品でメンバーが良い作品であると認めてはいるものの、ある意味では妥協の産物であったわけだし、それなのにそのB面で、且つ僕が唄っている作品を取り上げるなんてのは、言語道断だ、という話になってしまったというのは簡単に想像がつくし、まさにその通りになってしまって、収拾するのが、かなり大変な状況だったことが、詳しくは書けませんが、昨日の事のように思い出される。

 とにかく、A面の曲があるのに何故、こういうコトになるのか・・・? 実際、このあたりから色んな事がギクシャクしだした。そんな中でも、並行して、3枚目のアルバムの制作に入ることになった。今回は、当然ながら全曲メンバーのオリジナル作品ということになった。そしてこの頃になると仕事は益々ふえ続けた。その上に今回はプロデューサーが瀬尾一三さんに変わるだの、新事務所を設立しないかという打診があったりだの、とにかく僕個人にとっては、楽曲を作ったり唄うことに打ち込むというより、他の色々なゴタゴタに対応しなくてはいけない時間がどんどん増えていった。

 それでも4枚目のシングルとして、A面がマークの作品で「涙はいらない」、B面はトミーの作品で「明日になれば」が発売される事になった。両面とも各々の個性が良く出ていて、僕も、今度こそはいけるじゃないかと思える納得の出来る作品であったし、ひそかにうまくゆけばヒットも!! という感があったことを覚えている。そしてこの曲の発売に合わせ僕らの初めてのソロコンサートが1972年の10月に、永田町にある都市センターホ-ルで行われ、いつも通り、そして今回のアルバムではレコーディングにも参加してくれた、ドラムスの高橋ユキヒロ、ベースは小原礼を従えてのステージであった。実は、この時、初めて三人は、お揃いで白のサテンの生地で衣装を作ったりもして、当日のコンサートも満員で大いに盛り上がり、大成功のうちに終わった。

 しかし、コトはその直後に起った。(以下次号)

2007-11-20 17:23:56投稿者 : 大野真澄
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第20回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その2)”

2003.5

 前回の原稿を書く時に、そういえば30年前の今頃は入院していたんだなぁ、などと思いつつ、ふと当時のコトをふり返ってみようと書きはじめたら結構長文になってしまったんで、前回を1回目として何回かに分けて掲載させていただくことにしました。では前回からの続きです。

 とにかく制作者サイドの言い分としては、同時に発売された小坂忠の「ありがとう」と成田賢の「眠りからさめて」の2枚のアルバムは、いまひとつ伸び悩んでいる状態であるが、アルバム「GARO」はかなり順調であるという。しかし2枚出したシングルは今イチなんだが、もう少しの所まで来ている。ここはひとつ“実績のある”プロの作品(作詞はファーストアルバムでも書いている山上路夫さん。作曲は村井さんの他にすぎやまこういちさん)で、一気に盛り上げて売上を伸ばして、その後改めて又メンバーの作品に戻せば良いのでは? という提案が出された。しかし、そんな大人達の下心たっぷりの思惑など理解する術もないし、到底受け入れるコトなど出来るはずのない提案に対して、僕等3人とスタッフとのケンケンガクガクの議論は続いた。そして、そんな中で出て来た折衷案が(どうして、こんな案が出て来たのか? 一体誰が言い出したのか? も、はっきりとした記憶がないのだが・・・。)メンバー各々が、好きな外国アーティストのカヴァーをやったらどうだろう? というものだった。これが僕等のロック心? をくすぐったのかも知れないのかも!? その上に、プロの作家陣についても、過去に僕等3人が共通して好きだったという楽曲を書いている人達だったこと。外国曲の選曲も、僕らがステージで演奏していたり、これからやろうかなどと考えていたりするアーティストの作品を自由に選んで良いということだった。結果として、その通りになっているか、どうかは別にしても、たくみに僕達の心理状態を読んで、くすぐって来たのである。ミーティングは続いていた。

 しかし、実をいうと、この制作話が、何がどうなって纏まったのかは、はっきりとした記憶は残っていないのだが、とりあえず歌詞は日本語に訳して唄おうということになった。そして、その後選曲された外国曲5曲のうちの2曲(ブレッドのベイビー・アイム・ア・ウォント・ユー と マシューズ・サザンコンフォートのマイ・レディ)は僕が書くというコトになって、実は僕一人で訳詞を書いたのだが、その後アルバムが完成して、訳詞の部分の表記を見ると、なんとそこには、ガロ訳詞 となっているコトに驚いたのは、どうやら僕だけだったようだ。大人達は他のメンバーのご機嫌取りのつもりでやったんだと思うが、僕は大いに傷つけられた。今でも、この件は許せない思いである。しかしこんなことが平気で行われていた時代でもあったと云うコトだろう。

 そして、これら大人達の思惑で創られたこのセカンド・アルバム「GARO2」が、その後の僕達の方向をすっかり変えてしまうことになるなどとは、この時には想像もしていなかった。

(以下 次号へ)

P.S.  今頃になって、ふと気がついたんですが、冒頭にある大野真澄プロフィールのコト・・・。「70年、フォーク・グループ“GARO”を結成」とありますが、今となってはどうでも良いといえばそれまでですが、当時の僕らは“フォーク”と言われるコトを極端に嫌っておりまして、何度も雑誌社にクレームを入れて、僕らは“ロック・グループ”であると主張していたんですヨネ。次回から“何か”違う表記を考えますかねぇ~?

2007-11-20 17:23:25投稿者 : 大野真澄
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