大野真澄 連載

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第34回“ふと「団塊の世代」のコト”

2004.7

 “団塊の世代”とか呼ばれて、その数にまかせて我がもの顔で時代をのし歩いて来たはずだった世代が、いつの間にか最近では“沈黙の世代”と呼ばれるようになったらしい。僕の周りには熱弁をふるいながら、世の中を仕切り、きりもりし、時代を文化を引っぱってきた人間が結構いるので、誰がどういう人達が「今」沈黙をしているのか? この“団塊の世代”全体が沈黙をしているのか? 意味がよく分からなかったのであるが・・・。

 “団塊の世代”という言葉は今から28年前に堺屋太一さんが名付けたもので、この世代の未来を予告する小説を書いた時のモノだ。とのこと。正確には1947年~49年の3年間に生まれた人達のことを指して言うが、1949年昭和24年(僕の生まれた年でもあるが)生まれの人口が一番多いらしい。とにかく日本の戦後の成長とともに年令を重ねてきた世代でもある。戦後史の中に刻まれてきた印象的な出来事や変化をまともに経験した唯一の世代ともいえる。それ程に、世の中に風を巻き起こしてきた世代が今、なぜに沈黙の世代と呼ばれるようになってしまったのか?

 例えば1959年生まれの某大学助教授によると、団塊の世代の人達というのは「能天気な精神主義で戦略的行動の重要性を知らない」つまり、口先だけで行動が伴わない人種である、ということらしい。さらに1968年生まれのある人は、団結すれば何かが出来ると思っている世代である。と。世の中、けしからん、けしからんと言いながら、後は自分の趣味を追求している。説教くさいくせに、自分は成熟を拒否している。とか、とか。

 どうやらイメージとしては、70年代元気の良かった連中が、体制という社会のワク組の中に入ったら、いつの間にか、その中にしっかり組み込まれてしまって、モノは言うが実行力がないもんだからすっかりその姿が見えなくなってしまったということらしい。

 別に抵抗するつもりはないが、別の世代から見ればそんな風に見られていたのか、という思いだけでは済まされない気もするが、ちと淋しい気もする。例えば、最近では結婚式などに呼ばれても友人が結婚するのではなくて、友人の息子とか娘だったりするのが当たり前になってしまった。とは、言っても仲間うちでは、そろそろ定年も間近になってきたのだが、その前に会社をやめて、新たに会社を立ち上げたり、今こそ自分のやりたい事をやろうと意欲に燃えている人もいる。まったくもって頼もしい限りで勇気づけられる今日この頃である。

 僕も沈黙などしている暇などはないのです。今こそ、大いなる創作活動に入るべき時期が来たという訳です。多くの画家や芸術家がそうであったように、アーティストにとっては、まさにやっと、熟成出来る年令になったということであります。

 “団塊の世代”大いに頑張るのコト、というコトであります。

2007-11-20 17:37:12投稿者 : 大野真澄
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第33回“人のやっているコト”

2004.6

 1969年の12月から、3ヵ月間、僕は渋谷東横劇場で上演されていた、反戦ミュージカル「HAIR」の舞台に立っていた。ベトナム戦争、まっ只中の時代に、ニューヨーク・ブロードウェイで全世界で大ヒット中のミュージカルの日本版である。反戦をテーマとして「何ゆえ人は生れ、そしてどこへ行くのか?何のために、誰のために生き、そして死ぬのか?」世の中の、そして人々の様々な問題を提起しながら、物語は展開してゆく。エンディングでは、主人公でもあり、リーダー的存在であった人物の戦場の死によって、その死を問うのであるが、その死の意味を見い出せず、そのもどかしさを残したまま終る。それでも僕らには太陽はいつまでも輝き続けるし、輝き続けて欲しいと切に願う。人間は太陽の下(もと)自然との関わりの中で生を育んでいるのだからと・・・。

 先日、テレビのある報道番組でのこと。自室でエレキ・ギターを楽しそうに弾く自衛隊員へのインタビューが映し出された。何故、自衛隊に入ったんですか?の問いに、24歳の陸士長は「敵が来た時に、何も出来ないんじゃなくて、誰かが行かなくてはいけない。その誰かが行かなければいけない、誰かになりたい。どうせなら、守る人になりたいなぁー、というのがアレからですね。(この“アレからですね”の意味がよく分からない) もう、古い言葉ですが、“お国にため”みたいな・・・。ハッハッハッ」と、くったくがない。

 しかし、何のためらいもなく“お国のため”という言葉が、一人のエレキ・ギター好きの青年の口からスラスラと出て来た。子供の頃に、おやじや、おじいちゃんから聞いていた、あの“お国のため”という訳のわからない、どうにも理解しがたいあの言葉が・・・。今は、実戦で相手を0.6秒で撃ち倒す訓練をしているという。人を撃つのに、ためらいを感じている隊員もいるともいうが、早い話が人殺しの訓練をしているということだ。

 そして番組は続き、その後、一体、いつ誰が現在を、今を「テロ戦争の時代」としたのか、いつからそうなったのか知らないが、番組の〆で女性キャスターは「自衛隊は、対、テロ戦争という時代になって、強く実戦を意識する部隊に生まれ変わったといえます。憲法改正の動きに合わせるかのように、自衛隊も50年目にしてその姿を大きく変えてゆこうとしています。」と、とんでもない事態になっている、この状況を、延々と、平然とした顔で原稿を読んでいたキャスターの表情は冷酷そのものに見えた。だいたい「テロ戦争の時代になった」などと決めつけていいものなのか?それこそメディアを通じて、戦国時代になりましたヨ!!と戦争のプロパガンダをしているようなもんじゃなかろうか?覚悟しておけ、と脅迫されているような気分にさせられてしまった。

 もう一度書くが、その昔、僕が子供の頃に聞いた、「太平洋戦争中“お国のため”だからと、まともなことが、価値観が、人間さえもがデタラメになってしまった。」と憂いていた、おやじや、おじいちゃん達の顔が浮かんできた。戦争が起るのは利権がからんでいるからだの、宗教的は問題があるんだとか、あげくは今、イラクで起っている様々な問題に関しては、戦争とは、そういうもんだなどと知ったかぶりで話を押さえこむ輩。もうちょっと平和で、人として建設的で前向きな気持ちになれるような、まともな世の中になるような、幸せな気分になれるような、モノをメディアは提供して欲しいものである。

 “しかし、「人」は一体何をやってんだろうか?”

2007-11-20 17:36:44投稿者 : 大野真澄
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第32回“「おまえ」のコト”

2004.5

 近頃というか、かなり以前から気になっていたこと、違和感を持っていたことがある。 それはTVの中での話なのだが、映し出されるドラマの中での女性に対する呼び方のコトである。

 いつ頃から、そうなったのか良く分からないのであるが、例えばあるドラマなどで主人公の男が恋人とか女友達に対して「オマエ」という呼び方で相手に接している。「キミ」とか「名前」でならまだしも、「オマエ」なのである。「オマエ」が好きだ!! とか、ずっと「オマエ」を守ってやるから!! とかとか・・・。

 かと思えば、もう一例上げると、若いお笑いの芸人が公開番組の会場なんかで、客に声をかけたりする時に、マァ一般的には若い客に向かってだが、「オマエ」どっから来た? とか「オマエ」いくつだ? はては、「オマエなぁ」などと初対面の人間に対してたしなめちゃったりしちゃうワケ。全く面識のない人間に対して平気で「オマエ」呼ばわりを繰り返す。マァ、僕からすれば、そんな芸人こそ「オマエ」、一体何様なの?何様のつもりなの?などと言いたくなる。というよりも、画面の前で毒づいている自分がいるのである。この場合「オマエ」というよりも「オメェー!!」って言っているな!?

 で、「オマエ」という言葉は、僕の感覚でいうと、元々男同士で使う言葉っていうイメージがあって、女の人に対してはあまり使うコトのない言葉だと認識してきた。小中学校の頃のクラスメイトでは、女の子に対しては、余程親しくならない限り呼びすてで名前を呼ぶことはなくて、「○○さん」と「さん」をつけて呼んだものである。ただし、男子に対しては、当初は「くん」付けで呼んだりもするが、時間が経つにつれて、名前を呼びすてで呼んでいたりした。男子に対しては自然な流れの中での友達関係が、そうさせていたのだと思うが、女子に対してはずっと「さん」が付いていたと思う。そうそう簡単に「オマエ」などとは呼ばなかったものである。

 しかし、「オマエ」という言葉に、そういう呼び方に違和感を感じない人間関係も勿論ある訳で、肉親関係もその一つ。特に親から子へとか、それと非常に親しい間柄の友人で、「オマエ」と「オレ」などという関係。一般的に言うと、やはり師弟関係とか、ごく親しい関係の中では、年齢的に上の人が下の人に対して使ったりするのは不自然さを感じないのであるが・・・。とにかく、やたらと「オマエ」を使いたがる人間に対しては偉そうなヤツって感じがするし、相手に対して優位に立っていたいと願ったり、立っていると思い込んでいるか、もしくは勘違いしてる人間なのではないか?やはり親しい間柄でないと成立してはいけないのが「オマエ」なのではないのか?馴れ馴れしく使うモノではないのである。誰でもが、たいして親しくもない人間からエラそうに「オマエ」呼ばわりなどして欲しくないのである。好きではないのである。気分も良くなくなるのである。

 そういえば、先日ニュースかなんかのコラムで、確かどこかの小学校での話だったと思うが、クラスの女子に対しては「さん」付けで呼びましょう、と取り決めをしたところ、クラス内でのモメごとやいじめなどが減ったとのこと。やはり呼び方ひとつとっても、「人の心」は平穏にもなるし、イラ立ったりもする。「心の動物」人間とはかくも複雑なものなのである。

2007-11-20 17:36:04投稿者 : 大野真澄
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第31回“「8についての考証」のコト”

2004.4

 3月である。もう3月である。唐突ですが今回は「8」という数字の持っている特性について考えてみました。スーパーとか大手の電気量販店、薬屋など特売でなくても、この「8」とか「80」とか「800」で終る値札のなんと多いことか。何故「8」なのか?ぎりぎり、次の桁に行く手前、それも97とか99ではなくて98なのである。「8」この数字は一体何者なのか?アラビア数字(算用数字ともいう)を「1」から順に「0」まで、その形を検証してみますと・・・。

 「1」はバランスを取っていないと、左右どちらかに倒れてしまう。やはり「1」といえばトップ。その地位を確保し続けることの難しさと同じ立場にあるという事が形態的にも言える訳です。

 「2」はどちらかというと、下が平らということで数字中一番の安定感を持つものと言える。しかし、字そのものの重量感が希薄になっている事と、いかんせん若いという事実は否めないだろう。「3」も、一見すると安定して見えるが左側の空間ゆえに右側に倒れてしまう危うさを感じる。倒れた時の形が性的なものにつながる危険性を持っていることも事実である。

 「4」これは、もう何をか言わんやで、傘を広げて立たせようとしても立たないのと同じで全数字中の不安定感は一番ということになる。「5」も「3」と同じだが、天井の横棒のよりどころが左の縦棒にたよっているところに「5」の甘さが見られる。それゆえに結果的にはかろうじて横棒の重さでバランスを取っているようにも見えるが、右側に倒れこむのは自明の理である。「6」も安定して見えるが騙されてはいけない。よーく見ると左側が重いんです。したがって左に転がって左に進むカタツムリのようになってしまう訳です。

 「7」これは、もう、ラッキーセブンなどとイイ気になっていますが名ばかりです。何をか言わんやです。放っておいたらすぐに倒れてしまいます。そして問題の8は後回しにして、「9」ですが、これは「7」と同じくらいの不安定要素がありますが、右にしか転がれません。そうです。もう気付いたと思いますが、「6」と同じカタツムリということになります。「0」ですが、これはもうほとんど居場所を特定出来ません。どこにでも転がっていける便利なヤツなんです。というか“お調子もん"というべき立場にいる訳です。

 さぁ、そして「8」ですが、まさに見ての通り一目瞭然。素晴らしい安定感です。単に0が縦に重っているように見えますが、よーく見て下さい。下の0というか丸の方が少し大きいことに気付くことでしょう。これなんです、大事なことは!! 正月の鏡餅と同じ形態を持っているんです。2段重ねの下が大きいから安定を得られる訳です。生まれてこのかた上の大きい鏡餅なんて見たことがありません。よって「8」は鏡餅と同じであるという考え方が成立します。よって縁起も良いわけです。別に漢字の「八」が末広がりだからなどという理論を持ち出す必要もありません。

 で、「98」とか「980」ですが、これもよーく見て下さい。「9」も「0」も「8」に頼っているんです。「9」の場合当然「8」側に倒れようとしますが、安定した「8」のおかげで倒れずに存在を保っている訳です。よって「98」=安定という“図式"が成立します。そして「980」ですが、これは「0」のどこにでも転がっていけるという特性上楽になりたがるという傾向があります。ですから「98」という非常に安定した状態を保っているのを見つければ、当然「0」は「8」側に転がりたがる訳です。よって「980」=安定という“図式"がここにも成立するという事になります。こと程左様に「98」というのは見てくれの安定感の最たる形態をなしている事になる訳です。よって人々は「98」とか「980」とかの数字を見ると、とても安心した気持ちになれる訳です。ですから別に、値段が安いからとか、次の桁に行ってないからという考えで安いと感じて「買いに走る」わけではないのです。安定感=安心感という未知なる「公式」によって心が、おのずと導かれてしまうということです。何といっても人間は「心の動物」ですからね。

 ということで「98」とか「980」でなくてはならないという“マジック"が、そこには存在しているのです。

(以下次号)


2007-11-20 17:35:34投稿者 : 大野真澄
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第30回“ウォーキング・マップ”

2004.3

 外出するには、もうしばらくはコートが手離せなくて、まだまだ寒い日が時折、顔を出す今日この頃です。

 そんなさ中、なんと上京した頃に住んでいた、新宿区富久町から、早稲田界隈を歩いた。TBSの日曜日、早朝の番組「東京ウォーキング・マップ」で、大野さんにとっての思い出の場所を歩いてみませんか? との依頼で、本当に久しぶりに、かれこれ35年ぶりに、そこを歩いてみた。まさにこう云う番組があればこそ実現出来た散歩であった。

 別に、行こうと思えばいつでも、そこには行けるはずなのだが、日々、過ぎ去ってゆく時間の中に埋れている想い出に出会うことさえも、億劫になっている自分が情けない。そんな時に舞い込んで来た思いがけない仕事であった。

 実は偶然だが、この番組の収録の少し前に、ちょっとした用事があって近所を通りかかったことがあった。僕の住んでいた、余丁町公園のわきにある木造の2階建てアパートは、まだ存在していて心なしかホッとしたりしたが、靖国通りと外苑東通りが交差する曙橋付近にある住吉町の交差点から抜弁天に通じる道路は拡張工事のせいで、風景はすっかり様変りしていた。たしかに職安通りから四ツ谷方面に又はその逆方向に行くには、とても便利にはなっただろうが、昔ながらの仕舞屋の並ぶ風情のあった狭い坂道は、もう、すっかり姿を変え、その面影すら残っていない。ただ、その坂道をはさむ靖国通りの反対側の裏の細い通りのわきの急な坂道の途中にたたずむ、わが母校“セツ・モード・セミナー”(とはいっても最近話題の学歴詐称にあたるといけないんで、僕の場合は中退であります。というか、当時この学校に入学した生徒の大部分7~8割がたは、卒業しなくて中退だったと思う)は、その健在な姿は当時のままである。

 さて、散歩のスタートは僕の住んでいた余丁町公園付近からではなく、地下鉄大江戸線の若松河田駅から始まった。

 1968年当時に、まだ都電が走っていたこの通りには、せいぜい2階建ての家が立ち並んでいただけだったと思う。スタート早々、あまりの変貌ぶりに自分が今、どこにいるのか全く分からない状態になっているのに気付いた。ディレクターから説明を受けて、やっと納得。過去を取り戻そうと、若松町に向かって通りの右側を歩き出すと、すぐに、いかにも昭和を感じさせる佇まいのタバコ屋さんが・・・。改装もせずに今日に至っているが、道路整備のために、近々立ち退く予定だという。

 確かに時代の移り変りと共に人も変るし、街も変ってゆくものなどと思いつつも、皇后陛下の旧正田邸にしても、そうなのだが、こういうものを(その家が歴史的に価値があるかどうかは別にして)何とか残しておけないものか?などと、残念な気持ちと同時に、ある種の憤りとも思える感情が湧き起ってきたが、かといって今すぐ自分が何かを出来る訳でもなく、話をしてくれた老婦人(昔は看板娘だった? )の“もう、仕方がないのよね”という言葉に何というか、言いようのないむなしさを感じつつ、どうにかならないものなのか? と・・・。

(以下次号)

2007-11-20 17:34:40投稿者 : 大野真澄
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