大野真澄 連載

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第39回“槍が岳登山のコト”その3

2004.12

 登山直後の8月初めから書きはじめた、この登山話しも、気が付けばすでに11月も下旬、正月へのざわめきが聞こえてきそうな季節になってしまいました。いつまでも、この話しを続けるのもどうなのかな、と思いつつも途中で止める訳にもいかないしなどと色々な想いが交錯する今日この頃でありますが、前回からの続きです。

 わさび小屋に到着後、電燈の点いてないうす暗い廊下を通って、部屋に入ると何とその8畳程の部屋には寸分の隙間もなく10人分の布団が、すでに敷きつめられていた。ガイドブックとか話しには聞いていたが、いわゆるザコ寝状態の部屋で、現実にそれを見て、ちと戸惑ったが、一応同室の人に挨拶をと思い、僕の対面で横になっていた、いかにも山男風の人物に「どうも」と頭をさげたが、全くの無反応だったので、あれ? と思いつつも、これも初めてのことなので、登山なれした人というのはこうゆうものなのかという概念が(そう大げさなものでもないが…)。ほんの少し頭をもたげた。しかも、夕方5時だというのに、すでにしっかり眠り込んでいる人までいる。増々、訳の分らない世界が展開していた。

 で、5時からの夕食も、当日の人数が多いので、遅く着いた(5時ちょっと前で、すでに遅いらしい)僕らは7時からの夕食ということになった。そうかと思えば、僕らより後に到着した6人くらいの少し年配のグループが、明日の出発が早いから(全員が早いのである)と強引に、早めの時間にしてくれと、従業員にせっついている。そして不思議なことに、彼らの申し出は通ってしまい何十人も待っている人達を押しのけて、彼らは平然と食事をし始めた。これも理解に苦しむ行動パターンで(ガイドブックにあった”登山者はお互いの気持ちを尊重し助け合って”…etc)読んでいた内容とずい分違う現実に又々戸惑ってしまった。まぁ、僕達としては急ぐ旅でもないしということで、そんな出来事を横目で見つつ、とりあえず初日の無事に乾杯をしたのでありました。

 午後7時すぎからの夕食を終えたのが8時頃で、部屋に戻ったらすでに明りも消されていたので、持参した頭に付ける懐中電灯で照らしながら簡単に明日の準備と寝支度をして、さてと思ったら回りの全員も、常富さんも吉田さんもすでに横になっている。まだ8時半である。普段夜型の僕としても、別にやることも無いし、ウォークマンも無いし本もない。何も無いから、もうほとんど仕方なく眠りにつく以外の選択肢はないということでした。

とはいうもののなかなか寝つけるものでもありませんが、昼間の疲れもあってか、何とはないしに気がつけば空が白んでいたという程にぐっすりと眠れましたが、起きた時にはすでにほとんどの布団が畳まれていて、部屋の外ではうるさいという程ではないがザワザワとした雰囲気が伝わって来た。まだ朝の4時前であります。一応、僕らの予定では4時半に起床と、なっていたし、まぁ、少々早いが5時から朝食、6時には出発ということだったので、この際起きてしまおうと思い切って布団から出たときには、常富さん吉田さんの二人は、すでに”朝の用事”を済ませた後でした。

 さて、2日目は、わさび小屋から予定通り午前6時に、今日の宿泊地、双六小屋到着を午後2時半に設定して出発した。まずは、小池新道を通り鏡平をめざし歩き始めた。そして地獄への序章は歩き始めて30分もしないうちにやって来た。そこは、川原にあるような大小の石がゴロゴロと転がる坂道で、まさに”終りのない地下鉄の階段”を上るようなものでした。その上めちゃめちゃ足場の安定しない場所を、20kgの荷物を背負ってとめどなく続く坂道を登り続けなければならないという現実がそこにあった訳であります。しかし、これが本当の地獄ではない事に、気付いてない「奴」が又々、そこにいたのです。

(以下次号)

2007-11-20 17:40:09投稿者 : 大野真澄
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第38回“槍ケ岳登山のコト”その2

2004.11

 先月からの続きである。この夏、7月の下旬からの槍ケ岳への初登山を経験したときのコトである。しかして、登山というものが、これ程過酷なモノだとはつゆ程も考えなかった浅はかな自分に怒りさえ感じてしまった訳でありまして、言い替えれば、大変な「出来事」というか「事件」とでも言ったほうが良いくらいの経験でありました。

 約25kgのザックを背負い、登山の出発地、新穂高温泉に着いたのは、新宿からあずさ9号で松本へ。松本からは、バスにて丁度午後3時ごろに到着。実は新宿を出る時点で、同行の常富さんから、ザックの中身が多すぎて重すぎる感じがするから、少し荷物を減らした方が良いのではとのことで、せっかく用意してきたポカリスエットの粉末やら、栄養補給ゼリー、それと山小屋で読もうと思っていた文庫本、ウォークマンとカセット数本、着替え用のシャツなど約4~5kg分を出発地の新穂高温泉のコンビニ?(お土産屋かなあ?)から、宅配便で家に送り返す作業をしたのだが、実はこれがこれから先に起り続ける不安の数々の最初の出来事だった。

 まずは初日の宿泊地、わさび小屋への約4kmのなだらかな坂道を上り始めたのだが、50mもいかないうちに、軽くしたはずのザックが全身におおいかぶさって来て足が思うように前へ進まないのである。こんなに平坦で舗装こそされていないが、車も通っているごく普通の坂道としかいいようのない場所でもうキツイのだ。

 先述のとおり、普段運動することなどほとんどないのだが、今回は一応一ヶ月程前から、スクワットを一日30~50回はこなして万全? を期して臨んだはずなのに、どうしたことだ? もう体が音をあげている。同行の常富さんと吉田さん(今回初登場!!「海は恋してる」のザ・リガニーズの元メンバー《ちなみに常富さんも元メンバー》で、現在は森山良子さんや平原綾香さんの所属するレコード会社ドリーミュージックのマーケティング部勤務)はどんどん先を歩いている。

 常富さんは登山歴20年。吉田さんも、今回の槍ケ岳のような高い山への挑戦はないが、結構いろいろな山を踏破した経験の持ち主であるから当然といえば当然だが、2人の速度に全くついてゆけない。

 しかし、それでもこれから先に起り来る地獄から比べれば、まあ“へ”のようなものなんだが、何とか追っかけ、ついてゆくしかない!!それしか考えていなかった。

 そういえば、ここですでに「ウォークマンで音楽を聴き乍ら楽しく登山を!!」なあ~んてことが全く不可能であることを思い知らされてしまった。もう、この時点ですでに体が音楽を受けつけるような状態からは遠のいていた。常富さんの「ウォークマンなんか、いらないヨ!!」の一言が、何と重い意味を持っていたことかっ!!それでも歩かねばならないと、我が身にムチを打ち約2時間弱で、夕方5時前にはわさび小屋に到着出来た。ザックを下ろした時の安堵感というか、急に体が軽くなった爽快感を味わった時には、何かひとつの試練を乗り越えたような大袈裟な気分にさえなっている僕でありました。

 しかし、明日からの未知なる地獄の世界を知らない能天気な“奴”も、そこにいた訳であります。

(以下次号)

2007-11-20 17:39:34投稿者 : 大野真澄
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第37回“槍が岳登山のコト”

2004.10

 今年の夏、7月の下旬から、生まれてはじめて、しかも50も半ばだという、この年にとんでもないことに初挑戦してしまった。山登りである。しかもそんじょそこらの山ではない。北アルプスの南部に位置し3000m級の岩峰が連なる山々の中でも最高峰の奥穂高岳(3190m)に次ぐ高さを誇る、槍が岳(3180m)への登山に挑戦し且つ成功を果たしてしまったのであります。

 さて、普段ここのところ運動というものに、とんと縁のない僕にとって「登山しない?」と誘われた時、ほとんど何も考えずに「いいですねぇ!!」と即答してしまった。まずは、登山1ヶ月前の話であるが、その後にやって来る地獄のような現実など知る由もなかった。

 とりあえず、行くと決めてしまった訳でありますから同行する企画立案者の常富喜雄さん(1976年あおい輝彦さんの唄でヒットした「あなただけを」の作曲者であり、元「猫」のメンバーでもあり、その後吉田拓郎のディレクターであり、そして杏里を育てあげたプロデューサーでもあります)に、登山とはどういうものかを問うてみました。彼曰く、 「軽いトレッキングというか山歩きみたいなもんだから、きつくないし“楽”なもんですよ。女の人だって沢山登っている山だから何の心配もないから大丈夫だよ!!」と、聞いて、まずは一安心。

 それでも、単なる山登りなのか本格的な登山のようなものなのかという不安が頭をもたげて来て、そのあたりの山の本を買い込んで自分なりにどういう山なのかを確認してみた。すると、槍が岳はというと・・・、な、な、なんと物凄い岩山ではないかっ!! しかも、こんなことが書いてあるくだりがあった。

 「3000mを越える岩峰が8つも連なる槍・穂高連峰、その稜線縦走路はアルプスで最も難度が高く、熟達者のみに許されたアルピニスト憧れの縦走路だ。これを走破するには、総合的な登山技術が必要となる。まずは比較的簡単なルートからピークを極め、段階的にステップアップしていこう」とある。

 エ”-ッ!! こりゃあー話が違うぞ、確か楽な登山だから大丈夫だと常富さんは言っていたのにっ!! ヤバイッ!! 再び常富さんに聞く。

 「かなり、熟練した人達が登る山だと本にあったけど大丈夫かねぇ?」「大丈夫!!大丈夫!! 今回は、そのルートを歩くのではなく西鎌尾根で、しかもかなり余裕をもって楽なコースを歩くんで、全く心配ないですよ」とのこと。再び、安心。

 しかし、改めて本を開いてみると、「危険を回避する方法は?」とある。ちょっと待て、危険を回避だと? 話が違うではないか。そうかぁー。「楽なコース」とは言っていたが、危険が無いとは言わなかったな、常富さんは。

 読み進むと「3000mの稜線では、天候がひとたび荒れると、想像もつかない程厳しい世界に変わる。真夏の日中でも最高気温が5度℃を下まわることもあり、雨や風が加わると、登山者のダメージは極めて大きい。雨で体が濡れると体温が奪われる。山での体温低下は致命的。荒天時の行動は危険だ」致命的ィーッ!? ヤッバーッ!!

 さらに、「落石、滑落、転倒、高度障害、疲労など登山には様々な危険がつきまとう」又々、エ”-ッ!! さらに、「山ではすべてのことが命にかかわってくることも忘れてはならない」。

 エ”-ッ!! エ”-ッ!! エ”-ッ!! で、以下次号。

2007-11-20 17:38:58投稿者 : 大野真澄
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第36回“セツ・モード・セミナーのこと その(2)”

2004.9

 エルビス・コステロがデビューした頃、その風貌をみて、この男、誰かに似ている。以前どこかで見たような顔なんだが、誰だったろうか? ガロはとうに解散して、ロンドン・パンク全盛の1970年代後半の頃だ。大きな黒縁の眼鏡にギョロリとした目と細い顔立ちにリーゼント。確かに似ている。そう我が師、長沢節の若き日の写真と生き写しである。

 前回に続き、今回は長沢節氏のコトを書いてみよう。

 その長沢節(敬称・略)の生の声を初めて聞いたとき、実を言うと僕は戸惑ってしまった。声は男だが喋り方は女なのである。いわゆるオネエ言葉。今ではおすぎとピーコとか色々なタレントがこういう喋り方をしているので珍しくもないが、男が女言葉で話すのを聞いたことなど無かったから本当に驚いた。

 ところが時間が経つにつれて慣れてしまったというか、長沢先生のキャラクターとその喋り方がピタッと一致していることに、ある日気付いてしまった。あまりにも自然なオネエ言葉のせいか、彼にはもうこの喋り方以外は似合わないなと思ったのである。彼の頭の構造上、この喋り方が一番ふさわしいことに気付いてしまったのである。

 以前、彼はある雑誌にこんなことを書いていた。それは、まさにセツ・モード・セミナーで講義を受けていた頃に聞かされた話し、そのものであった。「男らしさのうちで、私が一番目の仇にしたのは“強さ”というものだった。人類が目指している弱者優先の福祉社会で、男がいつまでもバカのひとつ覚えみたいに、強そうな格好をしてたとしたら、とんだお笑いか、しらけちゃうかどちらかだ。ではどうすればいいか。その見本こそが女なのだ。男は強く女は弱いとされていた男性社会の歴史の中で女こそが弱者の美学をうち立て生き方の真のカシコさを示してきた。つまり、優しさは必ず男の強さをうち負かすのである」とか。「男女の身体の構造をつくる、それぞれの違いが男性美となり女性美となるのは当然だが、その違いだけに焦点を絞りすぎるのは、現代的ではない。男女の違いよりも、その共通の人間美というか、個性美を受けとめている場合が多いのである。人を見ていきなり男か女かではじまるような受けとめ方ではなく、もっと個性的に《キレイな》とか《スマートな》で、はじまり性別などは最後まで問題にしないような評価をする人は進んでいると思う。肉体構造など越えたところで、ある種の人間美が徐々につくり出されている。そこに、男も女も同じに優しく、デリケートでスマートでソフィスティケートされた美しさがあるのである。」

 思えば、東京に出てきたばかりの18才の少年の前で、唐突に男と女のかき根など必要ないし、そんなものは取っぱらってしまいなさい、などと説かれて、どういうことなんだろうかなどと、思いつつも説得力のある、オネエ言葉での話し方とその表情にすっかり心酔している自分がいたのである。かと思えば、「西洋人と比べた日本人の肉体的貧困はほとんどが、その手足の短さに要約されている。長い胴体はずるずると細長く、肩幅も小さく尻の盛り上がりもなく、アクセントに乏しい。つまり日本人には動線の美しいダイナミズムが無いのだ。ところがこのアクセントのない蛇のような胴体は和服に包まれると、とたんにセクシーになるのだから不思議だ。」まさに否定の中でさえ肯定論が展開されてしまう、あらゆるモノへの見方が一方向へ偏ることがないのだ。もうひとつ書いておこう。 「風景を描くというのは、まるで誰かとセックスをするみたいなところがあって、うまくいったところへは必ず又、行ってみたくなるし忘れられないものだ」なんて話されると、なぁるほどとそんな気分になってしまうから不思議だ。

 こうして入学した頃のほんの一時期を想い出してみても、僕自身の価値観というか人生観などが形成されたのは、ほとんどこの頃だったのかなぁなどと、これを書きながら改めて感じている酷暑の8月であります。読者の皆さんも機会がありましたら、長沢節関連の文章、資料に接して欲しいものであります。今風に言えば、心のどこかを「リセット」出来ること間違いなしです。

2007-11-20 17:38:27投稿者 : 大野真澄
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第35回“セツ・モード・セミナーのコト”

2004.8

 先日、6月も終わりのある日、文京区にある弥生美術館で開催されていた、我が師である故・長沢節先生の「長沢節・展」を見てきた。実は長沢先生は1999年に82才で不慮の事故のために、急逝されてしまったのだが、その直前に銀座で開かれた個展で、何年かぶりにお会いした時には、すごく元気で「近々、飯を食おう!!」なんて会話を交したのが最後になってしまった。

 長沢節という人物を知らない方も多いと思うので、簡単に師の説明をしておこう。独特のスタイル画で一世を風靡し、戦後の日本ファッション界に多大な影響を残したイラストレーターであり、水彩画家であり、エッセイストでもあり、そして美術学校セツ・モード・セミナーを主宰し、その校長でもあった。出身者には今や、日本を代表するファッション・デザイナー山本燿司や花井幸子など。イラストレーターではペーター佐藤、峰岸達、池田和弘、最近売れっ子の上田三根子など。その他では、料理研究家のケンタロウ、人形作家の四谷シモン。芸能界では樹木希林、桐島かれん、藤谷美樹、コーネリアスの小山田圭吾、木原光知子など。あとはクリエーター、プロデューサー、評論家、カメラマン、漫画家、モデル、エッセイスト、スタイリストなどなど、数えあげたらきりがない程多種多様の職業に就いている人達がこの学校から輩出されている。

 1968年の4月に僕はこの学校に入学したのだが、新宿区舟町の曙橋のほど近く、急な坂道の階段脇に今も、その学舎はある。この学校は午前、午後、夜間と1日が3部に分かれていて、それぞれが、好きな時間帯を選べるシステムになっていた。当初、僕は午前部を選んだのだが、後にアルバイトの都合で午後部に編入した。

 入学式の当日、余りに多い生徒の数に驚かされた。当時、この学校には試験がなく、申し込み順で定員になればそのまま〆切られてしまうというシステムで、各部とも70名程の生徒だったと思う。周囲の風景とは全くそぐわない洒落たパリ風の細長い建物はとてつもなく狭い階段で繋がれた各階の教室と中2階風のロビーがある6階建ての瀟洒なものであったが、入学式の当日は200名以上の人間が、その狭い校舎にひしめいていた。しかし、その数も3ヶ月もしないうちに、あっという間に半数以下になっていた。まあ、思えば、この学校のシステムというか方針が、別に積極的に何かを教えるというよりも長沢先生と一緒にクロッキーを描きデッサンをし水彩画を描きで、他の講師の人達も絵の技術とか美術史とかを教えてくれる訳ではなく、自分の経験とか人生論を喋るだけで、授業を受けているという雰囲気とは、ちと違うものであった。

 実は僕自身も1ヶ月くらいした頃に、果たしてここは学校なんだろうか? などと疑問を感じていたのも事実である。話は戻るが、そしてある程度の時間が過ぎると各人が描いた絵も溜まってくる訳で、それらの絵を各々が持ち寄って、長沢先生から批評を受けるというか批判を聞ける場が、もうけられるのであるが、その批評会の中で展開される独特の「長沢節ワールド」に魅了されてすっかり節先生の虜になってゆく訳ですが、そんなお洒落で素敵な長沢節の世界は次号で!! 

(以下次号)

2007-11-20 17:37:54投稿者 : 大野真澄
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