大野真澄 連載

第36回“セツ・モード・セミナーのこと その(2)”

2004.9

 エルビス・コステロがデビューした頃、その風貌をみて、この男、誰かに似ている。以前どこかで見たような顔なんだが、誰だったろうか? ガロはとうに解散して、ロンドン・パンク全盛の1970年代後半の頃だ。大きな黒縁の眼鏡にギョロリとした目と細い顔立ちにリーゼント。確かに似ている。そう我が師、長沢節の若き日の写真と生き写しである。

 前回に続き、今回は長沢節氏のコトを書いてみよう。

 その長沢節(敬称・略)の生の声を初めて聞いたとき、実を言うと僕は戸惑ってしまった。声は男だが喋り方は女なのである。いわゆるオネエ言葉。今ではおすぎとピーコとか色々なタレントがこういう喋り方をしているので珍しくもないが、男が女言葉で話すのを聞いたことなど無かったから本当に驚いた。

 ところが時間が経つにつれて慣れてしまったというか、長沢先生のキャラクターとその喋り方がピタッと一致していることに、ある日気付いてしまった。あまりにも自然なオネエ言葉のせいか、彼にはもうこの喋り方以外は似合わないなと思ったのである。彼の頭の構造上、この喋り方が一番ふさわしいことに気付いてしまったのである。

 以前、彼はある雑誌にこんなことを書いていた。それは、まさにセツ・モード・セミナーで講義を受けていた頃に聞かされた話し、そのものであった。「男らしさのうちで、私が一番目の仇にしたのは“強さ”というものだった。人類が目指している弱者優先の福祉社会で、男がいつまでもバカのひとつ覚えみたいに、強そうな格好をしてたとしたら、とんだお笑いか、しらけちゃうかどちらかだ。ではどうすればいいか。その見本こそが女なのだ。男は強く女は弱いとされていた男性社会の歴史の中で女こそが弱者の美学をうち立て生き方の真のカシコさを示してきた。つまり、優しさは必ず男の強さをうち負かすのである」とか。「男女の身体の構造をつくる、それぞれの違いが男性美となり女性美となるのは当然だが、その違いだけに焦点を絞りすぎるのは、現代的ではない。男女の違いよりも、その共通の人間美というか、個性美を受けとめている場合が多いのである。人を見ていきなり男か女かではじまるような受けとめ方ではなく、もっと個性的に《キレイな》とか《スマートな》で、はじまり性別などは最後まで問題にしないような評価をする人は進んでいると思う。肉体構造など越えたところで、ある種の人間美が徐々につくり出されている。そこに、男も女も同じに優しく、デリケートでスマートでソフィスティケートされた美しさがあるのである。」

 思えば、東京に出てきたばかりの18才の少年の前で、唐突に男と女のかき根など必要ないし、そんなものは取っぱらってしまいなさい、などと説かれて、どういうことなんだろうかなどと、思いつつも説得力のある、オネエ言葉での話し方とその表情にすっかり心酔している自分がいたのである。かと思えば、「西洋人と比べた日本人の肉体的貧困はほとんどが、その手足の短さに要約されている。長い胴体はずるずると細長く、肩幅も小さく尻の盛り上がりもなく、アクセントに乏しい。つまり日本人には動線の美しいダイナミズムが無いのだ。ところがこのアクセントのない蛇のような胴体は和服に包まれると、とたんにセクシーになるのだから不思議だ。」まさに否定の中でさえ肯定論が展開されてしまう、あらゆるモノへの見方が一方向へ偏ることがないのだ。もうひとつ書いておこう。 「風景を描くというのは、まるで誰かとセックスをするみたいなところがあって、うまくいったところへは必ず又、行ってみたくなるし忘れられないものだ」なんて話されると、なぁるほどとそんな気分になってしまうから不思議だ。

 こうして入学した頃のほんの一時期を想い出してみても、僕自身の価値観というか人生観などが形成されたのは、ほとんどこの頃だったのかなぁなどと、これを書きながら改めて感じている酷暑の8月であります。読者の皆さんも機会がありましたら、長沢節関連の文章、資料に接して欲しいものであります。今風に言えば、心のどこかを「リセット」出来ること間違いなしです。

2007-11-20 17:38:27投稿者 : 大野真澄
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