大野真澄 連載

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第42回“上京した頃のコト”

2005.3

 1968年4月初めの新宿区市ヶ谷富久町「白樺荘」。(2005年になった今も、その木造2階建ての「白樺荘」は、年老いたコンクリートブロックに囲まれた余丁町公園の砂場の脇に当時のままの姿で存在している。)初めての東京一人暮しが始まった。それ以前、東京には、中学三年の修学旅行、高校二年の時、ビートルズ公演を観に、高校三年になると夏休みにユースホステル(市ヶ谷)を利用して美術館や、博物館を巡る3泊旅行、そして、その年の10月には、月刊明星による「タイガースと夢のデート」という企画に2万人以上の応募者の中から当選して、メンバーと会ったり、テレビの公開録画の、見学をしたり(実はこの番組は、僕自身もその後に出演することになった「象印モノマネ歌合戦」だった)そして、食事をし、彼らの合宿所に泊ったりで、初めて間近に芸能人を見るという経験をして、「あ~、芸能人というのは、何て綺麗な人達(特に沢田研二さん)なんだろう」と思ったことが鮮明に記憶に残っている。ということで都合4回の上京の経験はしていたが、「もう、これで田舎に帰ることはないだろう」と心に誓っての東京一人暮し、最初の夜は、ことのほか孤独で寂しい思いにかられていた。

 その13号室、後の「かぐや姫」の唄ではないが、60ワットの裸電球が、ひとつだけぶら下った6畳一間の部屋は、実家で使っていた3畳間と比べると、引越しの荷物はあるものの随分と広く感じた。そして、入口にある半畳程の台所の引き戸を開けると短い土間の廊下は、共同トイレに続いていた。その夜は、荷物を解くことなく布団袋から、布団だけを出して真新しい畳の上に敷いて、わけもなく流れる涙のせいで、ゆがんだ裸電球を見つめながらいつしか眠りに堕ちていった。

 それにしても、過去に経験した東京と、今まさに住みはじめた、ここにある東京との落差に戸惑っていた。実は東京というのは東京駅で降りるとそこには大きなビルで囲まれた駅周辺の風景があるが、それこそが大都会東京で、どこもかしこもそうゆう所ばかりだと思っていたのである。ところが我が富久町界隈の地味な商店街とひっそりとした住宅街を見ると、そこは車の通行量も多くはないし、故郷、岡崎の繁華街と、さ程の変りを感じなくて、かえって親しみすら感じていた。これだったら以外と早く、この街に馴染めるかも知れないと思った。

 舟町のセツ・モード・セミナーには歩いて5~6分で行ける距離であった。当時、周囲は高い建物が無かったせいもあって、部屋を出て住吉町に向う坂道に差し掛ればそこにはもう洒落たフランス風の外観を持つセツ・モード・セミナーが、低い仕舞屋の並ぶその向う側で「俺は、廻りの家とはセンスが違うだろう?」とでも言いたげな雰囲気で気取った姿を見せていた。

 入学式では、外から見たお洒落さとは裏腹の狭い階段で繋がれた校舎には人がひしめいていた。そしてそこで周囲を見回して、妙な違和感を覚えた。入学式といえば当然のことながら同年代の人達ばかりだと思っていたのだが、そこにいるのは男も女も年令も、着ているものも髪の長さも何もかもが「バラバラ」に見えて、僕が過去に出会ったことのない種類の人々の集団であった。その中で高校時代は坊主頭が校則だった僕は、周囲とは全く違っているのではと、気恥ずかしく思ったのだが、そんなことを気にしているのは自分だけで、誰一人として僕の頭に興味など持っているはずもなかったのは当然のことであった。しかしそれゆえに先行の不安を感じていた。

 しかししばらくすると、入学式で感じた違和感こそが、この学校そのものだと思えるようになった。ここでは先生も生徒も、良い意味で気ままで、何でもありで、何があっても無くても、自分は自分、他人は他人、お互いにそれぞれ、どんなことも自分の中にあり、自分から生れ、己が思うがままに、好きに描き又、描かなくてもいいし、そして語れば良いし、生きていることを楽しめばいい。不思議なことに、そんなゴチャゴチャした無秩序とも思える雰囲気の中にもちゃんとした「和」が、存在していることに気付かされた。自由と勝手とをはき違えることのない人達がいた。セツ・モード・セミナーの時代が、僕にとっての人生の大きな礎になっていることは間違いない。そして、今も感謝の気持ちでいっぱいである。

2007-11-20 17:41:55投稿者 : 大野真澄
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