大野真澄 連載

第44回“万博のコト”

2005.5

 今回は前回に引き続き「FORK AID」の続編をと思っていましたが、友人の常富喜雄さんが、彼のホームページ「アンブレラ・ミュージック」(http://www.e-sedai.com/)の“常やんライブるぽ”で、コンサートの内容などが詳細に書かれていますので、そちらを見てもらえれば、前回の続きだけでなく、当日の楽屋風景、コンサートの内容など改めてごらんいただけると思いますので是非そちらにアクセスしてください。ちなみに文中にあるビートルズをハモリ出す人というのは、僕とアルフィーの坂崎幸之助のことであります。

 さて、今年は3月25日から、我が愛知県で、愛・地球博と名うった万博が開かれている。

 このリバーシブルの故郷「岡崎」からは会場も、ごく近いということで、こらから行く人も多いだろうし、もうすでに行かれた方もいることと思います。万博といえば1970年、僕が20才の頃、日本初のハイジャック事件(よど号ハイジャック事件)が起きた直前の3月14日に開幕した「大阪万博(人類の進歩と調和)」と、丁度20年前の3月17日に開幕した「つくば科学万博」が思い出されます。そういえばその間の1990年に「花博」というものもありましたね。

 で、大阪万博には2度だか3度だか“会場”に行きましたが定かではない。実は友人が、どこかのパビリオン(当時は聞いたことのない言葉で意味もわからずパピリオンだとかバビリオンだとか、適当に使っていたように記憶している)で、働いていて、その友人の友人がオーストラリア人で、彼らの宿舎に僕も泊まり込ませてもらっていた関係で、入場ゲートから料金を払って入った記憶がないし、「月の石」を見た記憶もない。ただ、お祭り広場の巨大さとその真ん中にそびえ立つ、岡本太郎の「太陽の塔」の不思議な形に疑問を持ちながらも、その意味を聞くことも、考えることも、そして理解することもないままに毎回会場をあとにしていた。現在、当時は見られなかった塔の内部が公開されていて、地球の歴史や未来を暗示するような岡本太郎作のオブジェが多数展示されているとのことで、機会があったらぜひ、観に行きたいものであります。

 それにしても、どのパビリオンにも長蛇の列が出来ているし、どこに行っても人はいるしで気分が滅入ってしまって結局、それらに入った覚えがなく、よって当然のことながら「月の石」など見ている訳がないのである。せっかく何度も足を運んだのに、今考えれば勿体ない話でもあります。しかし終了時に発表された入場者数は6700万人だったということだから、結局入場した人達み~んなが、かつて見たことのない程大量の人間が1ヵ所に集まっていた現実を見に行ったということだったのかも知れません。とはいうものの人の沢山いる場所というのは気持ちがワクワクして浮ついた気分になってしまうのはなぜなんだろう?などと思いつつ反面滅入っていた僕がいたのも事実であります。全く不可解な人間がいるもんです。(僕のことですが…。)

 そして時は流れて1985年。科学万博。

 どういう訳か大阪万博に関しては、まぁ、ある程度は、なつかしい感じはするのだが、科学万博に関してはすでに20年の歳月が経っているというのに1985年なんて、ついこの間のことだよって感じてしまうのは、多分同世代の人になら解ってもらえるかと思いますが、年齢とともに起こってくる現象であります。

 実は大阪万博には何の目的もなく行ったのですが、科学万博には、大きな目的がありました。

 「マイルス・デイヴィス」のコンサートです。多分このコンサートがなければ、科学万博には行かなかったかも知れない。大のマイルス・ファンである友人の安田さんに誘われてマイルス初体験をしに行った訳です。ジャズ界の巨星で、勿論その存在はロック・ポップスファンの僕でも、十分知っていたし、又、晩年になってからも音楽界における、その存在感は他を寄せつけない程の超重量級のアーティストとして君臨していた。

 そんな、ある意味ではビートルズでさえも足元にも及ばない「マイルス」を生で見られるというのだから、こんな機会は、そうそうあるものではありません。しかも肉体的にはそろそろ限界が近くてもう二度と観ることが出来ないかも知れないという話を聞いての「マイルス」のステージを体験しに行った訳であります。ということで、マイルス・デイヴィスのライブレポートのような感じになっていますが、何だか今だに経験したこのないような、会場の張りつめた空気が、僕の中の緊張感をさらにあおっていた。ビートルズを観に行った時でさえ感じなかった、この気分をどう表現したら良いのやら…。

 しかしもう、ページがないので「万博のこと」は続く!!

2007-11-20 17:42:59投稿者 : 大野真澄
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第43回 “FOLK AIDのコト”

2005.4

 ○○なコトを書き始めて今回で43回目。平成13年の10月号からですから、かれこれ3年半になります。毎回、月始めになると、今月は何を書こうかと思い悩んでいます。今回も実は、どうしたものかとあれこれ考えていたんですが、つい先日、3月5日に、東京の渋谷公会堂で行われた、「スマトラ沖地震復興支援チャリティーコンサート ~FOLK AID」について書こうかと思います。

 昨年末にスマトラ沖で起った大地震と津波による被害を受けた方々への支援を目的としたチャリティーコンサートです。

 これは、いわゆるあの時代(フォーク全盛時の70年代前半に活躍した)のアーティスト達が大集合してのチャリティーコンサートです。1月の下旬にNHKで収録された、フォーク特集番組の際に、南こうせつから、「この番組の出演メンバーで、スマトラ沖地震のチャリティーコンサートをやろうじゃないか」との発案で急拠決ったものでした。実は、この番組には、僕自身の出演は無かったのですが、こうせつから、僕にも声をかけてもらい、勿論ふたつ返事で参加を承諾させてもらいました。

 話しは、2月上旬のことだったんですが、こうせつ曰くコンサート迄の時間があまりに短くて、チケットの売れゆきが心配なので、それぞれの出演者が手分けして、手売りをして下さいとのことだった。

 彼自身も当日ステージで言っていたが、せいぜい1000枚(客席数は約2300)も売れれば御の字だろうと思っていたらしい。ところがフタを開けてみれば、チケット発売と同時に即完売で、手売りどころではなくなってしまった。僕も複数の友人に声をかけていたが、結局、枚数分のチケットを入手することが出来ずに申し訳ないことをしてしまった。おかげをもって寄付金もステージ上では、七百数十万円とのことだったが打上げの会場では、物販として売られたチャリティーTシャツなどが完売になり、額はさらに上積みされ、約八百万円を贈ることが出来たとの報告がされた。今回のコンサートに参加協力して下さった皆さんとお客さんに感謝の気持で一杯であります。

 さて、当日の3月5日、僕は大阪から渋谷公会堂に入りました。前日は奈良の河合町で、伊勢正三さん太田裕美さんとのコンサートがあり、当日は大阪泊りでした。こちらのコンサートもチケットは完売でとても楽しいライブが出来ました。そして昼の12時丁度に会場に入りました。今回の出演者は17組ということで、楽屋にはその後も、次々とアーティストがリハーサルの時間に合わせて到着します。ですからかなり大きな楽屋でしたがスタッフは入り切れずに溢れてしまう始末で、何だか始まる前から、熱いものが込み上げて来そうな雰囲気でした。

 そして、発案者の南こうせつは、出演者のこと、スタッフのこと、進行のことなどなどを確認しながら、まさに彼ひとり、目の廻るような忙しさの中でも、あらゆることに気遣う彼の姿には頭が下る思いでありました。しかもステージに上れば司会進行も兼ねていた訳ですから、そりゃーもう大変だったと思いますね。

 そんな中で、僕にとっては、かつてこの音楽業界に入った頃に最初に仕事をさせてもらった人達とも一緒になり、ある意味、もう一度あの日に戻ったように感じた日でもありました。

 一人は、ガロ結成以前に、ミュージカル「HAIR」に出演していた頃に知り合ったかまやつひろしさん。この人とはその後ガロ結成後も大変にお世話になりました。そして、もう一組はトワ・エ・モアの二人です。僕らがGAROを結成した直後、渡辺プロダクションへの所属が内定し、それと同時に同プロダクション所属で当時は飛ぶ鳥を落す勢いで、すごい人気者だったトワ・エ・モアのステージでのバックコーラスとして、約3ヶ月程、全国を一緒に旅させてもらいました。そのステージの中でも15分程の時間を削いてもらい、ガロ独自のコーナーも作っていただきました。約35年の時を経て、久しぶりに、生で聴く変らぬ二人の声に、なんとも言えない郷愁を感じてしまいました。

 そして17組のアーティスト全てが揃うと、楽屋はもう超満員状態。久しぶりに会って挨拶もそこそこに懐しい会話を交す人、携帯の番号を交換する人、弁当を食べる人、ギターの弦を変える人、パソコンを打つ人などなど、開演前の緊張と興奮の中でも、なごやかな雰囲気の楽屋風景がそこにはありました。そしていよいよ開演です。

(敬称は略させていただきました)

2007-11-20 17:42:27投稿者 : 大野真澄
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第42回“上京した頃のコト”

2005.3

 1968年4月初めの新宿区市ヶ谷富久町「白樺荘」。(2005年になった今も、その木造2階建ての「白樺荘」は、年老いたコンクリートブロックに囲まれた余丁町公園の砂場の脇に当時のままの姿で存在している。)初めての東京一人暮しが始まった。それ以前、東京には、中学三年の修学旅行、高校二年の時、ビートルズ公演を観に、高校三年になると夏休みにユースホステル(市ヶ谷)を利用して美術館や、博物館を巡る3泊旅行、そして、その年の10月には、月刊明星による「タイガースと夢のデート」という企画に2万人以上の応募者の中から当選して、メンバーと会ったり、テレビの公開録画の、見学をしたり(実はこの番組は、僕自身もその後に出演することになった「象印モノマネ歌合戦」だった)そして、食事をし、彼らの合宿所に泊ったりで、初めて間近に芸能人を見るという経験をして、「あ~、芸能人というのは、何て綺麗な人達(特に沢田研二さん)なんだろう」と思ったことが鮮明に記憶に残っている。ということで都合4回の上京の経験はしていたが、「もう、これで田舎に帰ることはないだろう」と心に誓っての東京一人暮し、最初の夜は、ことのほか孤独で寂しい思いにかられていた。

 その13号室、後の「かぐや姫」の唄ではないが、60ワットの裸電球が、ひとつだけぶら下った6畳一間の部屋は、実家で使っていた3畳間と比べると、引越しの荷物はあるものの随分と広く感じた。そして、入口にある半畳程の台所の引き戸を開けると短い土間の廊下は、共同トイレに続いていた。その夜は、荷物を解くことなく布団袋から、布団だけを出して真新しい畳の上に敷いて、わけもなく流れる涙のせいで、ゆがんだ裸電球を見つめながらいつしか眠りに堕ちていった。

 それにしても、過去に経験した東京と、今まさに住みはじめた、ここにある東京との落差に戸惑っていた。実は東京というのは東京駅で降りるとそこには大きなビルで囲まれた駅周辺の風景があるが、それこそが大都会東京で、どこもかしこもそうゆう所ばかりだと思っていたのである。ところが我が富久町界隈の地味な商店街とひっそりとした住宅街を見ると、そこは車の通行量も多くはないし、故郷、岡崎の繁華街と、さ程の変りを感じなくて、かえって親しみすら感じていた。これだったら以外と早く、この街に馴染めるかも知れないと思った。

 舟町のセツ・モード・セミナーには歩いて5~6分で行ける距離であった。当時、周囲は高い建物が無かったせいもあって、部屋を出て住吉町に向う坂道に差し掛ればそこにはもう洒落たフランス風の外観を持つセツ・モード・セミナーが、低い仕舞屋の並ぶその向う側で「俺は、廻りの家とはセンスが違うだろう?」とでも言いたげな雰囲気で気取った姿を見せていた。

 入学式では、外から見たお洒落さとは裏腹の狭い階段で繋がれた校舎には人がひしめいていた。そしてそこで周囲を見回して、妙な違和感を覚えた。入学式といえば当然のことながら同年代の人達ばかりだと思っていたのだが、そこにいるのは男も女も年令も、着ているものも髪の長さも何もかもが「バラバラ」に見えて、僕が過去に出会ったことのない種類の人々の集団であった。その中で高校時代は坊主頭が校則だった僕は、周囲とは全く違っているのではと、気恥ずかしく思ったのだが、そんなことを気にしているのは自分だけで、誰一人として僕の頭に興味など持っているはずもなかったのは当然のことであった。しかしそれゆえに先行の不安を感じていた。

 しかししばらくすると、入学式で感じた違和感こそが、この学校そのものだと思えるようになった。ここでは先生も生徒も、良い意味で気ままで、何でもありで、何があっても無くても、自分は自分、他人は他人、お互いにそれぞれ、どんなことも自分の中にあり、自分から生れ、己が思うがままに、好きに描き又、描かなくてもいいし、そして語れば良いし、生きていることを楽しめばいい。不思議なことに、そんなゴチャゴチャした無秩序とも思える雰囲気の中にもちゃんとした「和」が、存在していることに気付かされた。自由と勝手とをはき違えることのない人達がいた。セツ・モード・セミナーの時代が、僕にとっての人生の大きな礎になっていることは間違いない。そして、今も感謝の気持ちでいっぱいである。

2007-11-20 17:41:55投稿者 : 大野真澄
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第41回“冬は寒くなくてはいけないコト”

2005.2

 大晦日に降った雪のおかげで、久しぶりに雪景色の正月を味わった。物心ついた頃から、18歳で東京に出る迄暮した我が故郷岡崎では、正月をはさんだ年末年始の時期には、必ず一度や二度は雪の降る日があり、積雪があったように記憶しているが定かではない。

 冬は、やはり寒い方が良い。いや寒くなくてはいけない。雪が降らないといけない。田圃や水たまりには氷がはらないといけない。そしてたまには水道の蛇口が凍って回せなくなっていなくてはいけない。土が固くなって霜柱が立ってなければいけない。

 耳や鼻が赤くなって、手はしもやけやあかぎれにならなくてはいけない。股引をはいて、手袋をして、耳あてもしなければいけない。知らないうちに鼻水を垂らして、涙目にならなくてはいけない。一度は風邪をひかなくてはいけない。穴のあいたくつ下は、母に縫い直してもらわなければいけない。

 冷い雨が降っても雪が降っても、どんなに寒くても新聞配達は6時迄に終わらせて、掘り炬燵に体ごともぐり込んで、テレビのニュースを見なければいけない。朝ごはんは生玉子をかけて、みそ汁で流し込むだけでなくてはいけない。いくらいやでも、集団登校をしなくてはいけない。坂の途中で先生に会ったら挨拶をしないといけない。教室にはストーブがないから、窓はきちんと閉めて授業を受けなくてはいけない。休み時間は、おしくらまんじゅうではなくて、馬跳びでなくてはいけない。天下落しではなくて、ドッヂボールでなくてはいけない。竹馬の踏み台の高さは50cm以上でないといけない。キンタマツブシではきちんと地面に線を書かないといけない。遊びは真剣にやらないといけない。

 いくら名古屋近郊に住んでいるといっても、巨人、大鵬、玉子焼きでなくてはいけない。坂本九のファンでなくてはいけない。しかし、たまには「怪傑ハリマオ」を唄う三橋美智世も聴かなくてはいけない。「古城」や「夕やけとんび」は空で唄えなくてはいけない。「白馬童子」が山城新伍だったり「まぼろし探偵」に吉永小百合が出ているのを知ってなければいけない。そして若原一郎の「おーい中村君」や曽根四郎の「若いおまわりさん」や井沢八郎の「あゝ上野駅」なんかも唄ったりしなくてはいけない。

 無関係なことも書かなければいけない。12月1日には、家族で東山動物園に行かなくてはいけない。名古屋の中川区周辺の年賀状配達を経験しなくてはいけない。そしてビートルズを知るのは1月でなくてはならない。ヒット曲を書くのは寒い時期でなくてはいけない。ヒット曲を録音するのも冬でなくてはいけない。そして、ヒットし始めるのも冬のうちでなくてはいけない。北海道のラジオや有線で沢山かからないといけない。色んな人間関係を克服しなくてはいけない。ゆえに雪が降り積って美しく平穏な風景でなくてはいけない。だから大寒は大雪にならなければいけない。

 冬は寒くなくてはいけない。

2007-11-20 17:41:23投稿者 : 大野真澄
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第40回 “槍ケ岳登山のコト”その4

2005.1

 夏の出来事を書いているうちに、とうとう12月になってしまいました。過去3回の文章を読み返してみるとずい分ディティールにこだわって書いていることに気付いた。まぁ、その過程であった事をつらつらと書き始めた訳であるが、これをやっているといつまで経っても、槍ケ岳登山が続くことになってしまいそうなんで、少々方向転換を図って書き進めていこうと思います。

 さて、登山2日目は、次の宿泊地双六小屋をめざしたのだが、山というのは登るということだけでも大変な労力を強いられるのだが、それ以外にもたくさんの難敵が潜んでいる訳で、そのひとつの敵である天候の異変にも遭遇することになった。雲ひとつない晴天の青空から一転、突然の雨。まあ、雨だけならまだしも、雷を伴う雷雨である。この登山の直前にも槍ケ岳の隣の大天井岳で、落雷による犠牲者が出ていた事を知っていた僕は、忍びよる不気味な恐怖心と戦っていた。ザックカヴァーを用意していなかった20kgのザックの中へ雨が染み込んでその重量は多分倍近くになっていたに違いない。なんとか無事に宿泊地の双六小屋には着いたが、ザックの中身はすべて雨にやられていた。

 そして、僕にはもうひとつ体にやっかいな異変が起こっていた。頭痛である。聞けば、どうやら高山病にかかったのでは?とのこと。そして、この頭痛は下山するまで僕を悩ませ続けることになった。

 さらに今日の小屋の寝床は、ほとんど押入れのような場所で、4畳程の上下段に何と13~4人が寝るという、すさまじい限りの寝床であったが、それでも超疲労状態の僕は頭痛とともに、いつか眠りに陥ち、気が付けば次の朝を迎えていた。晴天だ。それにしても、この例えようのない爽やかには“え”も言えぬ程の感動を覚えた。

 そしていよいよ今日3日間は目ざす槍ケ岳への3180mの穂先への挑戦の日である。晴天に恵まれ峰づたいに歩き続ける、僕の足は一歩間違えば谷底へまっさかさまという登山前には全く聞いていなかった、とてつもなく危険な場所でありました。どちらにしても、いくら頭痛でもいくら疲れていてもどんなに足が重くても、僕には前に進むという選択肢しか無いわけであります。この状況から脱するには他には方法は無いのです。

 当然のことながら同行の二人は、僕のはるか前方を行っていたし、しばらくするとその姿は僕の視界から消えること数限りなく、その都度、彼らは僕を待つために休息を取っていたのだが、僕の休息時間が短くなるのも、又、当然であった。そして、いよいよ頂上に近づくととうとう彼等二人は僕を待つことなく姿も見えなくなってしまった。まぁ、僕には一緒に登っていける体力が無かったし、それゆえに先に行ってもらった訳でもあるが…。

 しかし、何とか槍ケ岳山荘には辿り着いた。そして、いよいよ山荘の横にそびえる山頂へということになったのだが僕には、もう切り立つ岩壁にアタックする体力などは残っていなかった。どんなに尻を叩かれても体力はゼロというかマイナス状態であった。にもかかわらず二人の友人は、ここまで来たんだからと無理矢理僕を山頂へと引きづり上げようとする。這うようにしてやっとの思いで3180mの山頂に立ったのだが、ふ抜けた僕の頭と体は周囲360°に広がる素晴らしい風景もほとんど記憶されることなく、只々頭痛と疲労から何とか逃れたいという一心だけであった。

 そしてその夜は前日に引き続き物凄い頭痛と疲労で食事は全く喉を通らず、次の日にはとうとう、全く動けなくなってしまった。

 早朝5時、山荘の医者の診断では高山病になっているとのこと。しかし出発は午前8時。このままでは出発は出来ないが、動くことも出来ない。取りあえず2~3時間眠ったら、ということになった。医者に診断してもらって安心したのか、僕はかなり深い眠りにつけたようだ。そして不思議なことに目覚めた時には、かなり状態は良くなり体力も戻った感じで、軽く食事も出来た。

 約2時間遅れて、今日の宿泊地横尾山荘へと下山の道を歩き出すことが出来た。

 しかして、この後、山を下る事の苦しさをも味わうことになるのであるが、それは又機会があった時にでもということで槍ケ岳登山の頁は今回で終了であります。

2007-11-20 17:40:44投稿者 : 大野真澄
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